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熟年文化考

  先日、テレビ番組「クローズアップ現代」にフォーク歌手の吉田拓郎がでていた。60歳になる彼のコンサートに、かつて(30年ほど前)嬬恋コンサートに集まった人たちで埋め尽くされたらしい。彼らの多くは団塊の世代でここ2~3年で退職年齢になる。彼らは働き盛りの年月を会社に捧げ、日本の高度成長を支えてきた。遊びを知らない彼らが第二の人生を目指して、今は何を考えているのだろう。それをチャンスにして多くのビジネスが生まれているという。

 今の日本は「若者文化」だ。ケータイ電話の機能は増え、遠くの友人との距離を感じさせないようなテレビ電話からひとりでも遊べる音楽、ゲーム機能などと盛りだくさんだ。繁華街でも自分たちの庭のように彼らが練り歩く。そのような若者達の遊びは「発散型」「逃避型」のように思える。

 何を発散するか。それは燃焼できないパワーだろう。何から逃避するか。それは本来の孤独な自分だろう。

それに比べると第二の人生を目の前にした団塊の世代、つまり、熟年の目は熱い。彼らの時間の使い方は発散でも逃避でもない。「熟成型」、「創造型」とでも名付けたい。そう名付けたいのは私が期待しているからだ。日本という国で、それを支える大人が胸を張って歩き、老年期を迎える人たちが人生を楽しむ…そのニーズを満たせるような社会環境がある国。国が成熟するということは、極端に言うと、成人・熟年・老年が楽しめる文化があるということだと思っている。

 私のオフィスの近くに、昔からのお気に入りの店がある。ジャズの生演奏をしてくれる。そのような店はいくつもあるのだが、ここはいつも常連客で埋められ、その多くは中高年である。ネクタイを締めた会社帰りのお父さん達が少し白いものの混じる頭をスウィングさせながらうっとりとステージを見る。白いひげを生やし、ジーパンをはいた老紳士とワンピース姿の老婦人が一番前に席を陣取る。どんなに楽しい会話でも決して大声は出さない。楽しみ方とそのマナーが身に付いた年配者の似合う店なのである。

 学生の頃、私は「若造ですみませんが…」と申し訳ない気持ちでこの店の隅っこに座り楽しみのお裾分けをしてもらった。ステージの周りであたり前のように胸を張って楽しんでいる彼らの姿から「上手に年を取ること」を学ばせたもらった。

 その後、組織で働くようになると、自分を取り戻す束の間の時間を求めて通った。その頃はすでに決めてしまったレールの上を走りながらも「これで良いのか」と自問し続けながらの日々だった。周りを見る余裕はなかった。また、今更止まれない時期でもあった。自分や周囲を見ているようで見ていない時期だった。

 今、その店に入ると雰囲気や客層はあの頃と変わらない。しかし、私のそこに行く意味は変わった。相変わらず後方に座る。そこは、ステージのアーティストとそれを見て楽しんでいる一人ひとりの中高年の客達が見える。そして、私は彼らの今まで、そしてこれからの人生に乾杯を送ることを楽しんでいる。

 

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